嘘をつくのが難しいのは、嘘をついた瞬間に防衛戦が始まるからだ。防衛戦は消極的なもので、活気に湧くリビドーで戦う人間にとって、陥落を恐れながらじりじりと耐久し、辛勝を掴む、といったことは非常に苦しい。
それだけではなく、嘘をつくというのは世界に流れる調度から身を離すことでもある。つまり収まるところに収まるものや心地よく調和している構成を単なる個人の都合で強引に捻じ曲げるわけだから、元々調和の中で身を解かしていた私の身体は急激に硬直して、私は調和自体ではなく私だけを居心地悪く見つめることとなる。そうなると急に表情だとか姿勢なんかが気になってくる。元々表情や姿勢などは私ではなく調度が関知する事柄で、思わず笑ったり怒ったり、はたまたなんでもないような時をなんでもないような表情や姿勢で過ごしたりする時は、私がその表情や姿勢のひとつひとつを指揮統率するのではなく、むしろ世界の方から調和する心地よさが示されることによって私は初めて収まりの良い地点を見出している。だから私は自分だけで笑う方法を知らないし、だから嘘をついて笑うのはいつの日も難しい。嘘は孤独である。
よって、調度の力を借りずに自分1人の力で防衛戦を強いられること、これが嘘をつくことの一側面であり、重苦しさなのだ、と少しまとめることができる。言葉だけ聞くとなかなかに寂しく辛い。
しかしその一方で、ときに人は自らのついた嘘を本当と信じることがある。その時人は自分でついた嘘を心の底から真実とみなすことによって、自らの存在を揺るがす暴力的な調度に対して自らを防御する。
ただだからと言ってそれが人が孤独な重苦しさに耐えうる強靭な存在であることを示しているわけではない。
人はやっぱり、弱い。
嘘を真実と信じる人々は嘘を(比較的)つかない人々と同等に脆い。したがって彼らは嘘を広大に張り巡らせ、嘘の調度を編み出し、そこに自らをうずめる。つまり嘘を支え帳尻を合わせる嘘の数々を自分へと無数についていく。看破からの回避の際だけではなく、私的日常の中でも、嘘を前提とした嘘の行動を取り続ける。変わらぬ日常を演じ続ける。殺していないと嘘をつくのなら、警察の前で殺してないと言うだけではなくて、クーラーボックスに分解された肉片を卑しく隠す傍で、平然と生前の彼にメールでも打つのがよい。たとえ嘘であっても自らの身をそういった調度に預けることによって、人は自らの指揮統率を免責される。上で述べた通り自らの指揮は調度が行ってくれるからだ。つまり嘘は調度として整合性を持った体系へと編み出されていくことによって、迫真性を持った現実的な感覚質へと高まっていく。そこにうずもれば人は決して孤独を感じることはない。嘘による毒を嘘によって制す。嘘の重圧から身を守る嘘の楼閣を築く。
私はあんまり詳しくはないのだけれど、この話は防衛機制の一側面を感覚的に記述したものとしても見れそうな予感がする。防衛機制は、有り体の調度に対して嘘をつくことなのだ。ただ防衛機制というのは無意識に関わることのようで、つまり私個人が仰々しく理性を発揮して嘘をこさえていく、という表現は現実に即しておらず、むしろ私の関知しない、できないような私の隅の底の流動のようなものが嘘を行使する、と言ったほうがまだ少し正しいのかもしれない。
たとえば合理化をしている時、人は自分が合理化をしているとは感じていないだろう。むしろ健在的な私は自らの判断が調度に即した無難な落としどころであることを疑ってもいないだろう。それが合理化という嘘だと分かる時は、精神分析を生業とする偉い人が横槍を入れた時なのである。それまで私は自分の中に流れていた合理化という営みに気づけないのだ。
とはいえ、嘘をついている時、自分が嘘をついているとことに自覚的になるという側面は、確かにある。嘘をついている自分にヒリヒリとした感覚を得ている記憶は、誰の中にもあるはずだ。それこそ嘘の楼閣を固めた人の中にも、あるはずなのである。
嘘をついたその瞬間の記憶は、楼閣の中にいる人にとって絶対に封じておかねばならない契機である。その記憶を思い出した瞬間、楼閣を構成するさらなる嘘の調度はドミノ倒しのようにその虚構が暴かれ、一瞬で瓦解し、その人は丸裸の自らと対面せねばならない。恐らくそれは惨憺な、グロテスクな瞬間だろう。今までついてきた嘘というものがその瞬間にまとめて自らにのしかかるのである。
物語などで自らの暗い過去を封印していた人物がその隠蔽を看破され急に発狂するシーンをよく見るが、それは今述べた内容に通じているような気がする。もちろん作者が実際に登場人物に対しどこまでの心情を想定しているかは分からない。しかし過去を隠蔽するのも嘘であるということを考えると、上のように発狂するシーンは、記号としては隠れた過去ただそれのみに慄くものして映されているかもしれないが、私としては、過去の記憶を隠し嘘をつき続けた惨めな自らを直視せねばならないという悶えるような苦痛をも含めた慄きでもあるようにも見えるのだ。
これは他人事ではないのかもしれない。これは私の予想を逸脱しないが、私達は正義という嘘をついているのかもしれない。
最近国会にトランプ支持者がなだれ込み暴動となったようだが、その時トランプ支持者らは自らを正義と疑わなかったはずだ。そういう大義名分の基盤がなければ行動というものは起こせない。
しかしそれは欺瞞ではないのか?
本当はただ動物的にむかついていただけではないのか。そもそも正義とは理念であり胡散臭いものなのである。普遍などあるわけがない。あるのは等しくそれぞれむかついている一定数の群衆であり、そういう数千の肉塊の脈動が“ただあるだけ”なのだ。別に政治的活動を悪く言っているわけではない。ただその活動を正義というパッケージに容れ次第に意気揚々と暴力を振るい始める時、私はそこに欺瞞を感じざるを得ないのである。
今トランプの敗北宣言等を受けて支持者は何を思うのか。「正義執行のはずがなんでこんなことに」と思う人々はどれほどいるのだろうか。もしそういった人々がいるならば、その時その人々は自らのグロテスクさを直視し、猛烈な吐き気に襲われる。
議論なんてのもそうだ。尊い理性の下平和的に話し合おう、それが正義だなどと言うが、テレビでも国会でも行われている議論はいつも喧々としていて、結局やっているのはむかつきから相手を殺そうとする戦争ではないのか。結局手許が武器から言葉に変わっただけで、内面的なリビドーは何も変わっていない。しかしそれを「歴史の反省を経て到達した尊い民主主義」などといって先進国が途上国にその制度を敷衍しようとする様を見ると、やはりこれも欺瞞に思えてならない。形式上文面上は尊くとも、その行使が結局戦争なのだから、これもまた大きな爆弾のように思える。爆発した時どれほどの人が欺瞞に気づき、苦しむだろうか。
私達はいつだって化けの皮を剥がされる可能性がある。今はそういう時代だろう。正義の名の下にいた、少なくともそう言う教育の下にいた私達が、目まぐるしく様々な嘘、欺瞞を看破され、やっぱり人種差別をしていたじゃないか、やっぱり女性蔑視をしていたじゃないかと、単なるむかつきだけによって何かを排斥し続けてきた剥き出しの自らの姿を直視せねばならなくなった。今後もそういうことは起こり続けるだろう。そうなった時、私達は耐えられるだろうか。私達は今後とも、嘘をつき続けた自らのグロテスクさに苛まれ続けることとなる。
少なくとも私は、そういう文脈で自分が嫌いだったり、逆にもう好きだったりする。