コロナ禍に居座る形而上学

 家にずっといるのがしんどいというわけではない。なんやかんや私はこの1年とりわけ大事な友人も持たず基本的に家にいたので、コロナ禍の中でも平常通りの休暇を過ごしていた。しかもひたすらに本を読むという作業を延々と行えるので、こういった時間を取り続けることが称賛される風潮はどこか私にとってはタナボタだった。Twitterではぼっち系の人々が、同じく束の間の無傷をどこか喜んでいた。「ノーダメでよかった」と僥倖に声を漏らす。ただ、こういったことに神経を逆撫でさせられた人もいたようだ。こういった現状、つまり外に出なくても楽しいもんねぇという現状を自慢するのは幼稚だと知らない有識者がぽろっと言っていた。「幼稚」。幼稚かぁ。

 「幼稚」という言葉には個人の判断を越えた射程がある。甘いやら辛いやらの判断のそれとは別で、主観的な述語というより、世界側に、客観側に重心がある述語である。対象に「幼稚」と表明するのはその人の単なる感想ではない。むしろそれは幼稚という判断をしたまさにその人の烙印を通して、対象を幼稚という類型へと、世界に縛りつける営みなのだ。

 形而上学とはこれである。世界やら物自体やらの「なにであるか」を見出すまさにこの営みである。形而上学は思惟によって現象から第一義的なものを見出そうとする。甘いや辛いは、まぁ、事物の中に甘いや辛いの原因が隠されている、みたいなことはあろうが、実際に事物の中に甘いやら辛いやらのクオリアが入っているわけではない。あくまでそれは現象であり、存在の告知であり、存在そのものではない。一方かの「幼稚」は完全に対象の性質を直接言い当てようとしている。古典的な言い方をすれば幼稚という述語は対象を厳密に類や種へと分割しそのロゴスを暴こうとしている。オーギュスト=コントの言う「根本原理」と「究極原因」を解明する学としての形而上学はここにあるのだ。つまりかの有識者は対象に「幼稚だ」と述語づける中で、暴かれるべきロゴス、根本原理が世界に必然的に存在し、自らはそれを暴くことができるということを前提している。彼はぽろっと、有象無象のぼっち系に対し、非難を通して形而上学的な働きかけをした。彼によればかのぼっち系の性質は幼稚である。それは個人的にそう思ったのではなく、世界の理として、ロゴスとしてそうなのである。

 ただこの営みは本当に適切なのか。日が落ちかかった部屋の中で私は最近よく考える。コロナ禍において、人は倫理に敏感になった。自粛であったり、失われる人命と医療の限界との矛盾であったり、私達は新型コロナウイルスの混乱の中で倫理的問題に多く触れ、SNS等でそれぞれ様々な声を上げる。しかしそのひとつひとつの声がどれほど適切なのだろう。これは単なるリテラシーの話ではない。その背景の形而上学の是非に関わる話である。SNSの中で、コロナ問題に際して巧拙入り混じった様々な形而上学的働きかけをみる。「〜は〜すべきだ。」「〜は失敗だ。」無意識にであれ、人々はロゴスの存在を信じ、ロゴスへのアクセス可能性を信じ、そして実際に思惟によってロゴスを暴こうとしている。ただ、こういった働きは無根拠に可能なことだろうか。すなわち、存在問題だけに関わらず、倫理的社会的現象に関しても、認識論的現象に対する主観的な思想(ノエイン)は物自体における形相(エイドス)を言い当てることができるのだろうか。思想史を顧みれば、それに対して慎重であった数々の偉人がいた。

 まず素朴に考えよう。私達は間違う。見間違うし聞き間違うし判断も間違う。しかもものの見方というのはその人の立場や価値観といったパースペクティブによるものであり、科学的に言えばその人の認知の特徴次第である。よって、認識において形而上学的に確実なことが担保されるのはむしろ稀と言った方が良いかもしれない(思想によっては主客という図式自体が批判に晒されるということもあるのだが、実際問題、現実問題ということを考えると、素朴な自然的態度としての主客の分別というのは前提していた方が自然だと考えられる)。

 そして思想史を顧みて考えよう。形而上学の不可能性の考察は合理論に相対する経験論、特にヒュームの懐疑論から始まり、その2派を総合したカントにて実を結ぶ。鉄板の流れである。カントに言わせれば、感性と悟性そして理性をもってして形而上学を遂行することはできない。客観的に確実に判断できるのは知覚できるものだけであり、知覚の彼岸にある、すなわち文字通り「形而上」にあるロゴスを解明する形而上学は不可能なのである。

 私達は頻繁に大義名分すなわちロゴスにのっとった語りをしばしば行う。「(大義名分にのっとれば)〜は悪い。」「(大義名分にのっとれば)〜は〜すべきだ。」しかし今までに述べてきたことを踏まえれば、この語りは些か乱暴である。確かに理性的判断においては「〜は悪い。」「〜は〜すべきだ。」という命題を思惟し得るだろう。この思惟作用を事実として疑う筋合いはない。しかしそれが知覚できないロゴスとして、すなわち大義名分としてまで存在するというまでの判断は、素朴に見ても思想史的に見ても、乱暴ではないだろうか。私はここに慎重な問題意識を持つべきなのではないかと、もちろん形而上学的命題としてではなく私個人の提案として思うのである。

 繰り返すが、コロナ禍によって人々は倫理を意識せざるを得なくなった。しかし、そこで語られる倫理にはややもすれば謙虚さに欠けるという側面が存在する。各々が自らの発見したロゴスを盲信しているためである。そしてその無謙虚さは横暴さへと変わり、人々はだんだん過激な口調でまくしたてるようになっていく。なぜなら彼らには自らが暴いた大義名分がバックについているからだ。一時の個人的感情、判断がロゴスを正確に映しているとまで誤認し、圧倒的自信をもって攻撃を始めるということがときに起こるのである。

 しかし現実はそれほど甘くはなく、現実として起こっているのは、有象無象があちこちで自らの意見を傲慢に叫び散らしている惨状に過ぎない(それがTwitterだったりする)。

 

 さて今仮に人々の過激な倫理からロゴスが手放されたと考えよう。私は倫理がここから始まるように思う。その時大義名分に自惚れた傲慢な論者はもういない。人々は自らの倫理的な意見を、正義執行としてではなく、謙虚な一意見として述べる。そしてその意見を人々はそれぞれの大義名分の下突っぱねるなどとはせず、不定の解を見出すヒントとして真摯に受け止め、受け止めてから肯定や批判をこれまた謙虚に行う。もう自らのロゴスを押し通すための潰し合いは起こらない。弁証的な擦り合わせの下、ゆらゆらと、しかし確実に、答えへと向かっていく。

 ...本当にそういったことが起こればいいのだが、私は無理だと思う。無理だ。正直私には信じきれない。だからこれを読んで倫理を信じることの出来る勇敢な人がいたならば、ぜひとも頑張ってもらいたい。そういう人がいることを信じ、筆を置く。